2/27 広告代理店とクライアントの関係
先日、テレ東の「カンブリア宮殿」を観ました。ケンタッキーを運営している日本KFCホールディングスの近藤社長が特集されていた回で、昨今好調な経営状況について深掘りする内容でした。(まだTVerで視聴できるので興味を持たれた方はどうぞ!)
※我々は自分たちのことを広告会社と呼ぶのですが、世の中一般に合わせ広告代理店とタイトルには表記しました。
番組内でしっかり紹介されていましたが、既存店客数の推移、2016年から2017年にかけてはかなり苦しかったようです。
毎年12月だけで年間利益の8割ほどを稼ぐという話は印象的でしたが、12月だけに依存した稼ぎ方は健全とはいえませんよね。しかし、そういう業界って実は少なくなくて紳士服業界もフレッシャーズ時期(2~3月)にほぼ同じくらいの割合を稼いでおり3月依存です。稼ぐタイミングをいかに分散させて収益源を多様化させるかはどの業界でも重要かと思うわけです。
この番組をみていて強く感じたのは、我々広告会社はクライアントの経営パートナーになれるか、単なる出入りの業者で終わるか、どちらになるかで会社の生き死にが決まってくるなぁ、怖いなぁということです。そのどちらになるかは広告会社次第ですが、(意識的か無意識かはさておくとして)その判断は会社(広告会社でいえばひとつの営業局)の経営を左右する死活問題になっているということです。
ちなみに、日本KFCホールディングスを担当する広告会社は2018年に「ADK+Ogilvy」から「博報堂」にアカウントが移りました(高畑充希を起用した施策は博報堂制作)
広告業界ではあるあるですが、クライアントの経営環境が良くないとき、よく広告会社は変えられます。一方的に変えられることはありません。競合コンペというかたちで、次期プロモーションについて各社が提案する訳です。経営環境の悪化は、一概にクライアントの責任とも広告会社の責任とも言えず、双方のやり方が良くなかったというのがその状況をもたらした要因だ、というのが冷静な分析だと思うのですが、最終的に変えられるのは広告会社だし一瞬で数十億の案件を失うので本当に大変な仕事だと思います。
日本KFCの不振は何が要因だったのか?
社長自ら認める失敗ですが、新規顧客を取り込もうと展開した一連の「ハンバーガーキャンペーン」は失敗施策だったようです。
ちなみにこの新施策、日本KFC社内でも意見が割れてメニュー開発側とマーケティング側で売れない責任のなすりつけ合いが起きていたようです。
そうなると、担当する広告会社としてはクライアント社内でも意見が割れて疑問が投げかけられている商品を、何とか辻褄を合わせて無理やり売ろうと奔走していたんだろうなぁ、と勝手に想像します。
「広告会社の側から何も言えない」それは本当か?
正直なところ「言えない」のか「言わない」のかは分かりませんが、クライアントに対してある種ネガティブな意見というのは言い出しにくいというのはよ~く分かります。下手に良くないことを言って担当を変えられては元も子もないですから言わないで済むなら言いたくありません。しかし、そういう姿勢を決めた時点で確実に出入りの業者に格落ちするんだろうなぁ、というのも思う訳です。
広告会社は経営パートナーになり得るか?
コンサルティングファームがクライアント企業の経営パートナーというのはイメージできる人が多いと思います。一方の広告会社も社内にコンサルティング機能を持っていたりするので経営パートナーになろうという気持ちはあるのですが、そう簡単にできるわけないのがコンサルティングです。
結果論ですが、消費者の嗜好やニーズをデータに基づいて(つまり、根拠をもって)示すことで「消費者はケンタッキーにハンバーガーは求めていない」ということを早い段階で理路整然と伝えることができれば良かったのかもしれません。しかし、それは理想論だと言われるでしょう。それは恐らくクライアントの現場とよほど深く連携していないとそういう議論にもならないだろうし、実際にデータを取ろうとすれば時間もお金も掛かることなので、クライアントからは「えぇ、それ必要ですか?」「調査のための調査はやりたくないんですよねぇ」とか、ネガティブな反応が返ってくると思います。そこを、「必要なんです!」を押し返して、実行まで移せるだけの信頼関係だったり、担当としての胆力があれば良いのですが、簡単ではないことは誰もが知るところです(私にも出来るか分かりません)。しかし、それを我々広告会社はやるしかないんだと思う次第です。
我々はTVCMやメディアの力を信じているので、良いマーケティングを行うことができれば企業の経営は改善すると信じています(クライアント側の認識はそうではないことも多いのは事実ですが)
皆さんに観て頂きたい動画が2つあります。以下の2つのCMを見比べ、どれだけ購入意向や来店意向に変化があったか考えてみて下さい。
前者がADK+Ogilvy制作、後者が博報堂制作です。タレントパワーでいえば、auのCMはじめ芸能界で活躍している桐谷健太も、高畑充希も遜色ない人たちだと思いますし、動画の構成も前者に大きな落ち度があったとは思えません。しかし、2016~2017年の成績は悪く、2018年以降に数字が回復している。それが事実でした。
後出しの議論なので何とでも言えますが、確かに「今日、ケンタッキーにしない?」というコピーの方が良かったのかもしれません。12月のみに依存しない売上をつくるという企業の姿勢も示せますし、「たまに無性に食べたくなるケンタッキー」という消費者のインサイトを踏まえ、クリスマスだけじゃなく平日にも店頭に来てください!というメッセージが十分に伝わると思います。施策としても効果が出たから、良いマーケティング戦略だったのだと思います。しかしながら、どれも後付けの話です。
広告会社はどちらかというと受注ベースの産業であるから、クライアントのことを考えすぎるあまり、「こういうのはクライアント好まないよね」とか「クライアント的にこれNGでしょ」と先んじてアイデアの幅を狭めてしまいがちであることは否めません。長年クライアント担当を務めたメンバーがチームにいると、クライアントの社内事情に詳しいことが良い方向に働くこともありますが、逆に足かせになることも多々あります。
半分クライアントの社員になったつもりで働く!なんて仰る人もいますが、あくまで第三者としてのポジションは捨てずに持っていないことには、クライアントの経営パートナーになることは出来ないんだと思う次第です。
我々はともすると、クライアントに嫌われたくないから彼らに同化してしまい「悪いことは言わずに良いことだけ言う」そんな姿勢に陥りがちです。しかしながら、あくまで消費者が何を求めているかを冷徹に分析しアウトプットに落とし込める会社こそパートナーになれるのだろうと、番組を観て思いました。
社長があれだけ潔く「あれは失敗だ」と認めることは稀かもしれません。ましてや、我々一般人がそのようなことを知ることは更に稀だと思います。
しかし、番組をキッカケに知ることになったこの状況ですが、自分の担当クライアントであろうとなかろうと、経営視点を学ぶためのケースは世の中に多く転がっているのだから我々はそういったことに常にアンテナを張っている必要がやはりあるんだと思う。
心に留めて日々の仕事を行っていきたい。
【補論】炎柱:煉獄杏寿郎の話に進む前に
ケース①で下弦の伍「累」のエピソードについて書きましたが、今回はケース②として炎柱「煉獄杏寿郎」に着目してみたいと思います。
「煉獄杏寿郎」にとって最大のクライマックスは上弦の参「猗窩座(あかざ)」との戦闘かと思います。映画化される「無限列車篇」は杏寿郎の死が印象的なシナリオになる訳ですが、その凄まじい戦闘シーンは世の読者の関心を集めたエピソードだったでしょう。今回もケース①と同じく「日本のマンガ・アニメにおける『戦い』の表象(以下、同書)」を参考にし、同書にある「ジョーの命題」という概念をベースに「杏寿郎vs猗窩座」の闘いを振り返ってみたいと思います。
さて、サラッと書いてしまいましたが「ジョーの命題」というのは何でしょうか??本論に入る前にちょっと遠回りをしますが、話のベースとなる内容のため若干説明させて下さい。
早速、ひとつ文章を引用します。
つまり、マンガやアニメに負わされている課題は、「傷つかない記号」で「傷つく身体」を表現するという「アトムの命題」ではない。実際に負わされている課題は、キャラクターは「傷つく身体」を持っているという前提で「傷つかない身体」を実現せよ、という「アトムの命題」を転倒させたものなのである。
※同書 2章1節 転倒される「アトムの命題」より
アトムの命題
なんのこっちゃ?という感じですよね。。。。
しかし、これは深く掘り下げていくにあたって重要な点なので、まずここから紐解かせてください。上記の文章を2つに分解すると以下のようになります。
①「傷つかない記号」で「傷つく身体」を表現するという「アトムの命題」ではない。
②キャラクターは「傷つく身体」を持っているという前提で「傷つかない身体」を実現せよ、という「アトムの命題」を転倒させたもの
もはや現代文の授業みたいですが、なんとかお付き合いください。
(ここで離脱しないでね、、、)
①が何を言っているかというと、大塚英志という研究者が「アトムの命題」という著書で「傷つく身体」という概念を生み出しました。それは何かというと、マンガのキャラクターは現実に存在しないという点で”記号の組み合わせでできた非リアリズム的な図像”であると。また、”生身の肉体と持たないが故に本当に傷つくことはなく、仮に傷つき死んだとしても、次の場面で直ぐに回復することができる”という風に概念を整理しました。難しい言葉で表現するとそうなりますが、平易に言うと「キャラクターは現実に存在しないただの画(像)である。画なんだから”生き死に”も”傷の回復”も作者の自由にできるよね」ということかと思います(乱暴すぎ?)。
さらに、この考え方には手塚治虫が1979年のインタビューで以下のように述べたことと大きく関連しているとされています。
僕の絵とというのは驚くと目が丸くなるし、怒ると必ずヒゲオヤジみたいに目のところにシワが寄るし、顔がとび出すし。そう、パターンがあるのね。つまりひとつの記号なんだと思う。[中略]つまり、僕にとってのまんがというのは表現手段の符牒にしかすぎなくて、実際には僕は画を描いてるんじゃなくて、ある特殊な文字で話を描いているんじゃないかという気がする。
※手塚治虫「珈琲と紅茶で深夜まで」より
ただマンガを読むのに、いちいちここまで考えて読む人はいないでしょう。
しかし、マンガの作者はこういうことを考えて1コマ1コマ描いてるかもしれないと思うと、そう簡単には聴き流せないことだなと私は思う訳です。皆さんはどうでしょうか?
傷つく身体
そして大塚がその著書で述べたのは、第二次世界大戦の悲惨な体験が、マンガに対して死の表現をすることを、キャラクターに対して「傷つく身体」を持つことを要請するものとなった。戦後マンガの始まりは、非リアリズム的な記号的身体を持つマンガのキャラクターも、リアリズム的な傷つく身体を持った存在として描くことができる、ということを発見したと大塚は考えている。
私なりの補足ですが、昔のミッキーマウスの映像を見たことはありますでしょうか?よくある高いところから落ちるくだり、生身の人間であれば大怪我間違いなしであるが、記号的身体を持ったキャラクターであれば死ぬことはない。怪我をしたとしても次のシーンになればケロッと回復している、というあれに近いのではと思います。
手塚治虫以降、キャラクターというのは非リアルであるにも関わらず、傷ついたり、死んだりしてしまう身体というのを手に入れたというのがポイントです。
ジョーの命題
さて本題の「ジョーの命題」です。ジョーとは言わずと知れた「あしたのジョー」のことです。さて「ジョーの命題」とは何でしょうか?同書から引用すると以下のような説明になります。
「登場人物たちは傷つく身体を持っているという前提のもとで傷つかない身体を実現せよ」という課題のことを呼びます。
※2章2節「ジョーの命題」と「科学」の相克より
さて、これまたどういうことでしょうか?よくもまぁ、こういうことが思いつくものです。
私はリアルタイム世代ではないのですが、まずざっくりと「あしたのジョー」のあらすじを説明させて下さい。『あしたのジョー』の主人公である矢吹ジョーはボクシングの素人でしたが、丹下段平指導のもと理論的にボクシングを学び強くなっていきます。彼の必殺技は「クロスカウンター」。そして数々のライバルとの戦い、力石徹との死闘、ホセ・メンドーサとの最終戦を迎えます。
ジョーが最後に戦ったホセ・メンドーサとの戦いにおいて、ある種の理論的転倒が生じました。ジョーはホセにどんなに殴り倒されようとも、何度も起き上がって試合を続けます。「彼は不死身なのか?」とホセに感じさせるもので、ホセの理解と想像を超えた気迫があるものでした。戦いの最中、ジョーは過去に戦ったライバルたちの必殺技を繰り出してホセを苦しめます。ライバルたちは自分の必殺技がホセにヒットするのをみるや喜び、試合中にジョーと過去のライバルたちの間に精神的なつながり(絆?)のようなものが生じました。
最終的にはジョーはホセに敗れ有名な「真っ白に燃え尽きた」シーンが描かれるのですが、その時にジョーがみせた不死身(傷つかない身体)の様子こそが、ジョーが起こした奇跡と呼べるものになります。
絆が生み出す奇跡
ここでジョーが奇跡を起こす原動力になったものは、ジョーとライバルたちの間に生じた「絆・友情」といったものが大きく関わっており、「傷つく身体」の中から「傷つかない身体」が出現する奇跡は主人公たちの絆(足立によれば信条の正しさ)から生まれると足立は分析しています。そして、以下のような循環論法的な構図が生じると足立は指摘しています。
週刊少年ジャンプが掲げる3原則が「友情・努力・勝利」なのは有名な話ですが、少年漫画における基本フォーマットとして友情や(仲間との)絆が機能する点は欠かせない要素です。上記に挙げた「主人公の信条」というものの多くが「友情」「愛」「絆」という言葉に置き換えても差しさわりないものであり、そしてその尊いものを守るために命がけの戦いを挑み、(仲間たちのためであれば)大きな犠牲をも厭わない。むしろ絆が価値あるものであればあるほど犠牲も大きくなる、そんな循環の関係性が生じるのが2つ目の循環である。
つまり、仲間との絆、ひいては主人公の信条は犠牲を支払ってでも守りたいものであり、その過程で本来「傷つく身体」であるはずのものが「傷つかない身体」に転じる奇跡を起きる。それによって強大な敵を打ち砕き、結果的に主人公たちが信じた「絆」や「志」というのが犠牲を支払うに値するだけの価値があるものとして正当化されるという構図にある。
前置きが長くなってしまいましたが、今回記載した内容を踏まえ以下のようなトピックをベースに「炎柱・煉獄杏寿郎」について考えていきたい。
・煉獄杏寿郎が担った役割とは?(何のための犠牲だったのか?)
・煉獄杏寿郎が起こした奇跡とは?
・煉獄杏寿郎が残したもの
沼にハマっていそうで怖い。納得いく結論を導き出せるのかどうか不安になってきた。。吐きそう。。
2/20 ヒロアカの後継作(として期待?)
少年ジャンプ+(アプリ)を知って以来、いや正確にはアプリを使い始めてからその便利さに何故これまで使わなかったのか、、、と後悔しています。あー、便利。
同様の新連載「魔女の守人」について以下のような記事を書きましたが、最近怒涛の新連載ラッシュが続いています。新連載「MASHLE(マッシュル)」は「僕のヒーローアカデミア(以下ヒロアカ)」の後継的な作品なのではと個人的に期待しています(嘘かも)
主人公の特異体質
ヒロアカの緑谷出久(通称デク)もそうでしたが、世の中の大半の人間が”個性”と呼ばれる特殊能力を持って生まれる中で緑谷出久は”無個性”というヒロアカの世界観の中では特異体質として生まれました。その出自が、オールマイトから個性「one for all」を受け継ぐキッカケになる訳ですが、新連載「MASHLE」の主人公マッシュ・バーンデットも世界を構成する住人のほぼ全てが魔法使いの世界において”魔法が使えない”特異体質に生まれています。
なぜか筋トレを極めていて、第1話から早々に魔法を筋力パワーでねじ伏せるというハチャメチャ設定を披露しました。もはやドラゴンボール笑、エネルギー弾を弾くんじゃないんだから!とツッコミ入れてしまうシュールさです。この顔。私の世代だとマサルさんを思い出します。
まぁ、初めはどんな漫画も「これ大丈夫か?すぐ打ち切りか?」と思わせるような滑り出しだったりするんで悲観してません。(嘘です、悲観してます)
これハリポッターだよね。
どこをどうみてもハリーポッターなんだが、そこで終わったらただのパロディでしかないので、きっとそれだけでは終わらないだろう!と期待してしまう自分がいる。新連載第1弾「魔女の守人」がどこをどう見ても「進撃の巨人でしょ?」「鬼滅の刃も入ってるでしょ?」と早々にケチをつけられていたが、ここから作者と編集がどう調整していくのかが腕の見せ所ではないですか。
SNS見てても思うのが、過去作品との共通点探して粗探しとかパクリ疑惑とか書き連ねるのは簡単なんだけど、少なくない読者がいる週刊少年ジャンプに連載される漫画ということで「日本カルチャーに与える影響」とか「過去作品の(作者なりの)解釈」とか「後継作への影響」とか、そういう影響は小さくないと思う。
故にこういった新作がどう生まれたかも気になるし、現代世界のどんなエッセンスを吸収して作品に落とし込むのかとか、将来どういう作品に生まれ変わっていくかとか、そういうのを考えていく方が楽しいと思うし、建設的な気がする。
SNSが文句の垂れ流しで終わらないようにと願うのは私だけではないはず!今後も継続して要チェックですね。
2/19 パクリで終わらないで(そうであって)
最近、自分で勝手気ままに文章を書いていて思うことがある。
それは対象との距離感だったり進入角度は人によって違うはずなんだけど、ネット上ではある1つの方向性に勢いがつきがちだということ。そういったモメンタムが出来上がってしまうと、それに対して逆のことは言いにくくなるし、言ったとしても声が小さい(数が少ない)からかき消されてしまう。
例えば、週刊少年ジャンプで新たに連載が始まった「魔女の守人」がネット上で話題だ。こんな様子です。
ざっくりまとめると、
・進撃の巨人にそっくりだ(似たポイントが多すぎる)
・鬼滅の刃要素も入っている(「お前をの人に戻してやる」)
・おいおい他にどんなマンガの要素があるんだおい
とまぁ、他の作品との共通点をあげつらって楽しんでいるのが今の状態。むかし集英社が「進撃の巨人」の持ち込まれるも断ったという逸話もあったため大盛り上がり。ネット上は「パクリ要素」を探して、それをどれだけ面白く(大喜利的に)投稿できるか、そんな流れになっている。
私も本誌で読んだが読後の瞬間的な反応は、そんな感じになるのもまぁ頷ける。しかし、ここで冒頭の対象との距離感や進入角度という話が入ってくると思う。といっても、これは宇野常寛さんの受け売りでしかないのだけど、ある事象に対して自分はどう思うか?というのを何よりも先ず考える必要があると思っていて、それが無いままに情報だけ浴びてしまうと結局は他人が言うことをそのまま鵜呑みしたり、ただ反射的に好き嫌いとかの反応をしていかざるを得なくなる。それくらい、現代の情報環境は(スピードが)早いし(情報量が)多い。これも宇野さんの主張だが「遅いインターネット」というのは必要だと思うし、賛成である。
「魔女の守人」に話を戻すと、週刊少年ジャンプの編集者の考えることだ。きっと、何か大きな仕掛けを用意しているのではないか?と私は期待している。進撃の巨人を取り逃がしたうえに、パクリ疑惑を持たれて終わるような企業ではなかろう。
というのも、こそこそとパクるのであれば、あそこまで明らかにそして第1話からパクリ要素をいれるのも不思議な気がしている。それが意図的であるならば、パクリ元の作品(「進撃の巨人」「鬼滅の刃」)を作者+編集者がジャンプなりに解釈し、何か付加的なオリジナル要素を乗せてくるに違いないと思う。というか、それしかないと期待しかない。それが無かったらジャンプはやばいだろう。鬼滅の刃もそろそろ終わるし。
ちなみに「魔女の守人」のキャッチコピーは
魔女と騎士のダークファンタジー、開幕!!
大体の作品が連載開始時点から大きく変質を重ねていくから、このコピーの期待に違わず強烈なダークファンタジー化していくことを望みます。
2/14 彼らはなぜ戦うのか?(下弦の伍「累」篇)
書き始めたシリーズ第1篇。しれっと予定より1日遅れての公開です。。
第1篇では下弦の伍「累」を主題にしました。
- 鬼殺隊と鬼の相互補完的な関係性
- 累が鬼になって失ったもの
- 「鬼舞辻無惨≒キュゥべえ」
- 累はどうして犠牲を払ってまで戦ったのか?
- 累の自己肯定感はどこにあったか
- 累は負けて良かったと思う
- 累が望んだもの
いきなりですが、参考にした「日本のマンガ・アニメにおける『戦い』の表象」(以下、同書)の序論で著者の足立氏は古典である「定本 想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン著)を引用して以下のように述べています。
この二つの問題は「戦い」に対する根本的な問いによって結びつけられる。その問いとは、「なぜ人は大きな犠牲を払ってまで戦い続けるのだろうか」というものである。この問いに取り組んだ研究者の一人がベネディクト・アンダーソンである。※同書より引用
「想像の共同体」はナショナリズムの古典であり、ナショナリズムの名のもとに多くの人々が国家の犠牲となり戦場で死んでいったことに触れている。内容についてはこの回では扱いきれないため省かせて頂きます。
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では鬼滅の刃の話を始めましょう。
「人間(鬼殺隊)」と「鬼」、どちらの陣営も”なぜ大きな犠牲を払ってまで戦い続けるのでしょうか?”。
今回、私は次の2点に着目してみました。
1.鬼殺隊と鬼の相互補完的な関係性
2.リーダーの存在(産屋敷耀哉と鬼舞辻無惨)
例えば、鬼殺隊には産屋敷耀哉というリーダーが存在し、鬼には鬼舞辻無惨という絶対的な首領が存在する。彼らリーダーがその組織の成員にどう接しているかに注目すると、そこには天と地ほどの差がある。その興味深い点については追って考えてみたい。
今回は先に述べた1点目を深掘りしていきたい。
鬼殺隊と鬼の相互補完的な関係性
両者の関係性について述べる前に、どうやって鬼が生まれるか?について整理しておこう。鬼舞辻無惨は鬼の始祖であると言われていて、鬼舞辻が血を分け与えた者が鬼化する。例えば、今回取り上げる下弦の伍「累」は人間時代は病弱で、身体の弱い子どもだったと描かれている。そこに鬼舞辻無惨が現れる。
累が鬼になって失ったもの
それは「家族(との絆)」だ。累の両親は、息子が人を殺して喰わねばならない化け物になってしまったことを憂い包丁を手に取る。しかし、これは累を殺そうとしたのではなく一緒に死のうと試みた結果だった。それに気づくのは炭治郎に負けた後であったのだが。
一度ここで立ち止まり、鬼化のシステムについて考えてみました。比較対象として「魔法少女まどかマギカ」を挙げてみたいと思います。もはや鬱アニメとしての定位置を確保した”まどマギ”ですが、世間が(少なからず私は)衝撃を受けた魔法少女誕生のシステムについて整理しておきたいと思います。ポイントは3つ。
魔法少女になれば「どんな願い」も1つだけ叶えてもらえる。しかしながらその代償は小さくない。魔法少女と人間は不可逆の関係にあり、一度魔法少女になるともう元の人間には戻れない。
変身には自身の魂を具現化したソウルジェムが必要で、魔女と闘うたびにその色が濁ってしまう。その濁りを解消するにはグリーフシードと呼ばれる物質を手に入れる必要がある。もしそれが出来ない場合、つまりソウルジェムの濁りを解消できない場合、ソウルジェムはグリーフシードになり、最終的には魔女が生まれる。本篇でも指摘される点だが、キュゥべえという地球外生命体の企みによって魔法少女は生み出され、(ある意味)少女たちは望まない戦闘に駆り出されてしまう。
ここで、構造を単純化してむりやり鬼滅の刃との関係性を見出すとすると、
キュゥべえと鬼舞辻無惨は同様の関係性にあるのではないだろうか?
「鬼舞辻無惨≒キュゥべえ」
キュゥべえと魔法少女の関係にあるような「願いを叶える」というプロセスは鬼滅の刃にも存在する。先ほどの累の回想シーンだ。
累は鬼舞辻の血によって鬼となり、丈夫な身体と鬼の力を手に入れた。一見救われたように思えるが、結果、彼の願いは叶わなかった。そして累はその満たされない思いを埋めようと疑似家族を作ろうとする。本来鬼は群れないものだと思われている。それは鬼舞辻が鬼たちの反乱を防ぐためと言われているが、累はどこか特別扱いを受けていたのかもしれない。鬼に血縁という概念は存在しないため、累によって集められ、役割が与えられ、彼の望むよう役を演じさせるための”ただの駒”としての疑似家族だ。しかし、疑似家族であっても累はそれを守ろうとしたように思う。
累はどうして犠牲を払ってまで戦ったのか?
累が自分のことしか考えない鬼であったならば、鬼殺隊が大勢乗り込んできた時点で那田蜘蛛山から逃げたかもしれない。しかし、彼は逃げなかった。
もし作者が「累」を身勝手で自己中心的な鬼として描こうとしていたのであれば、一度逃げた累を炭治郎たち鬼殺隊が追いかけ追い詰め、最終的に討ち果たすというシナリオにもなったかもしれない。しかし、そう描かなかった辺りに「累はあくまで元人間である」として描いている作者の意思を感じる。疑似家族のメンバーが欠けたら新しく補充すればいい、と頭では分かっていたとしても(疑似家族であっても)家族を守りたい、家族の絆が欲しいと思っていたことは推察して余りある。対称的なのは、鬼舞辻無惨の下弦の鬼の粛清だ(それについては別回で注目してみたい)
しかしながら、家族に対する累の執着は異常とも呼べるもので、力と恐怖による支配、それが累と他の鬼との関係でした。累の心の根底にはどういった気持ちがあったのかを考えてみましょう。
累の自己肯定感はどこにあったか
自己肯定感を考えるにあたり、自分の居場所の獲得が非常に重要なポイントになると思う。累にとっては家族が居場所だったように思うが、同じくずっと自分の居場所を探し続けるキャラクターが他にもいた。「エヴァンゲリオン」の碇シンジはその代表だろう。彼は自分が他人から必要とされているということを拠り所にして戦場に身を置いていた。
父に捨てられたと思いこんでいる少年、碇シンジは「血の臭いのするエントリープラグ」にその身を投げ入れ、EVA初号機に乗る。彼はなぜ乗るのか―「みんなが誉めてくれるから」。彼は「逃げちゃだめだ」と鸚鵡のように繰りかえし、目の前の使徒に突撃していく。(中略)それなら素直に逃げてしまえばいい。むしろ恐ろしいのはそのこと。使徒から逃げることであり、その結果として誰からも必要とされなくなることなのである。碇シンジのか細い呟き―「嫌われたらどうしよう」
引用:澤野雅樹「左利きの小さな戦い―EVAに乗る者たち」『ユリイカ』青土社 1996年
著書「欲望の現象学」で”欲望の三角形”の考え方を提示したルネ・ジラールは、人間関係とそこに働く欲望を「主体・対象・媒体」の三角関係でとらえ、主体は媒体を模倣することで対象を欲望するとした。正直、よく分かりませんね。。。次の図が基本モデルなので参照してみて下さい。
このモデルには3つの主体が必要であるように思われるが、欲望の三角形において必ずしも常に3つの主体を必要とする訳ではないようだ。
ジラールは、自我は二つに分裂することで、欲望の三角形の二頂点を占めることがあるとする。自我が、自我そのものと、自我の外身である肉体とに分裂し、その肉体を他社が欲望する時、自我は主体となり、他社は媒体、そして肉体が対象となる。主体となった自我は、媒体となった他者の欲望を模倣することで対象である自分の肉体を愛することが可能になる。つまり、他者が自分を欲望してくれることによって、自分が自分を愛するという自己愛が実現される。
仮に、碇シンジの事例を図示するならば以下の図のようになるだろうか。彼は自分の存在を自らは肯定できず、他者(特に熱望したのは父親・碇ゲンドウ)から欲望(必要と)されることによって、「自分は必要とされる人間なんだ、居ていいんだ」と自我を保っていました。
次は「下弦の伍・累」にこのモデル当てはめてみましょう。
疑似家族の中で累は子ども(息子)の役割を担っている。父や母から守られる立場にあるはずだが、能力的には累が最も強いため「保護者―被保護者」の関係はここに成立していない。
そのことは累自身がよく分かっている。だから、父や母がその役割(親が子を守る)という役割を全う出来ていないことを指摘し糾弾する訳だ。この時点で、累自身は満たされないし、担えない大きさの役割を求められる他の鬼達も命の危険に晒されてしまう。歪な家族である。
それでも累は家族に拘る。なぜなら、それが自分の存在意義に繋がっているからだ。今一度、累の欲望の三角形をみてみよう。
疑似家族の歪さは、本来守る立場にある父母兄姉が累より弱いことにある。父母兄姉はむしろ累の傘下にいることで鬼殺隊から守られる立場にいるので、命の保証が得られる。父母兄姉が必要としているのは下弦の伍としての鬼の力であり、疑似家族の役割である息子(弟)という立場を欲しているのではないことは明らかだろう。しかし、累にとっては疑似家族が自分を求めてくれることが、自身の存在を肯定することに繋がるという構造の中に累はいる。
自分でも偽物の絆(恐怖の絆)であることを認めながらも、それにすがるしかなかった累の眼前に炭治郎と禰豆子が現れる。
本物の絆をそのまま奪い取ってしまいたいと思ったのだろう。しかし、同時に奪い取った後にはまた偽物の絆になってしまうということも分かっていたはずだが、炭治郎の言葉に恐怖の絆で繋ぐと回答するあたりに、まだ自分の実力への過信があったのかもしれない。
累は負けて良かったと思う
彼は勝ち続ければ勝ち続けるほどに、偽の絆にすがり続けることになる。今回、炭治郎が敗れて禰豆子が累のもとに行ったとしても、そこに彼の望むような絆は絶対に生まれなかっただろう。それには累自身が気づいている。自分で以下のように語っている。
偽りの家族を作っても虚しさが止まない
結局俺が一番強いから誰も俺を守れない庇えない
どうやってももう手に入らない絆を求めて
必死で手を伸ばしてみようが届きもしないのに
累が望んだもの
累が望むものは手に入ったのだろうか?回想シーンで彼は両親と再会することができて「一緒に行くよ 地獄でも」という言葉を聞く。これが累の欲しがっていた親の姿だったと思う。子の為に親がその身を地獄に落とす。鬼が生まれながらにして鬼でない以上、人だった頃の優しい気持ちというのは誰もが持ち合わせている。やはり、鬼舞辻無惨だけは絶対的な悪なのだろうか(まだ分からないが)
まどかマギカにおいてはキュゥべえに敵対する存在として、企みを阻止しようと奔走した「暁美ほむら」という魔法少女がいました。鬼舞辻無惨がキュゥべえであるとするなら、鬼滅の刃における暁美ほむらは誰でしょうか。
鬼殺隊と鬼の相互補完的な関係性について述べましたが、鬼が存在しなければ鬼殺隊も存在しません。その意味で2つは補完関係にあると言えます。
次回は、炎柱の煉獄杏寿郎をケースに鬼殺隊の側面から考察を進めていきたい。次回は予定通りにいくかな。。。
【引用元】
・吾峠呼世晴「鬼滅の刃 4」集英社 2016
・吾峠呼世晴「鬼滅の刃 5」集英社 2017
・足立加勇「日本のマンガ・アニメにおける『戦い』の表象」現代書館 2019
・ルネジラール(古田幸男訳)「欲望の現象学<新装版>」法政大学出版局2010
2/13 彼らは何故戦うのか?(鬼滅の刃からの考察)
書きっぱなしになっていたテーマがあったので、それを回収しにきました。
以前書いた記事で少し触れたのですが、「鬼滅の刃(以下、鬼滅)」において「鬼殺隊(人間)」と「鬼」の間には圧倒的な力(能力)の差があります。鬼殺隊の部隊長である「柱」たちは、その恵まれた才能を生かして部隊をリードしていきますが、それでも腕を切り落されれば鬼のように再生することはできません、人間だからです。そのようなハンデを背負った彼らがどう闘うのか。その点に興味がありました。
そんな強くカッコいい「柱」ですら死んでしまうのが鬼滅の刃の魅力ともいえます。それは、敵である鬼が圧倒的に強いためですが、主要キャラまでもが結構な確率で死んでしまうことにショックを受ける傍らで、私に以下のような疑問が浮かびました。
なぜ彼らは戦い続けるのか?いつまで戦い続けるのか?
ざっくりと結論めいたことを先に書いてしまうと、
-目的を達成するまで戦い続ける
-負けない(死なない)限り戦いは続く
ということだろうと思います。
では、目的とは何でしょうか?死なないためには勝ち続けないといけないのか?色々と疑問は尽きません。
上記の問いに対して以下4つのケースを挙げてみました。「柱」と「鬼」の両側面から考察していきたいと思います。
ケース①:下弦の伍「累」(2/14公開)
ケース②:炎柱「煉獄杏寿朗」(2/18公開予定)
ケース③:上弦の陸「堕姫と妓夫太郎」(2/21公開予定)
ケース④:鬼舞辻無惨(2/26公開予定)
以下の図書を参考に本論を進めていきます。
以上、導入のみで恐縮ですが序論として公開しました。絶賛書き途中なのでまとまり次第公開していきたいと思います。もうちょっと柱についても書いていきたいよな。。。どうしようか。
2/10 What is a Hero?
This is a story about a hero written by an adult who is addicted to the "Kimetsu no Yaiba".
【目次】・ヒーローを構成する要素4つ -「悲劇(悲劇的境遇)」とはなにか? -仲間の存在 -怒りの感情 -敵・宿敵の存在 -ワンピースにおける敵・悪とは?
http://tyomefumi.hateblo.jp/entry/2020/01/06/175204
The first day is about the “Hero” itself.
【table of contents】
・ Four elements that make up the hero
-What is "tragedy"?
-Existence of Friends
-Emotion of anger
-The existence of enemies and nemesis
-What is the enemy/evil for the world of One Piece?
4 elements that make up the hero
There are four types: tragedy (tragic circumstances), friends, anger, and enemies.
What is "tragedy"?
What the hero needs, the biggest factor is "tragedically circumstances". For example, it is represented by Kamen Rider.
Takeshi Hongo, who is a member of the Biology Laboratory at Johoku University, was blessed with high intelligence and athletic ability to compete in motorcycle racing. However, he was captuered by a "shocker" who plans to use the remodeled human to dominate the world. "Shockers" were trying to create remodeled humans that added the abilities of animals and plants to humans. Hongo was turned into a remodeled human with the ability of grasshoppers by a "shocker".
When shocker was about to make the last brain remodeling of Hongo's, he was rescued by my lab teacher, Dr. Midorikawa, and both of them escaped from the Shocker's hideout. Dr. Midorikawa was also kidnapped by "shocker" and made him cooperate with shocker. However, Midorikawa planned to remodel Hongo to defeat Shocker's ambitions, and provided Hongo with a motorcycle named "cyclone" and reinforced suit as tools for fighting Shocker.
Hongo and Midorikawa seemed to have escaped safely, but a "Kumo-otoko(spiderman)" attacked the warehouse at the hiding place, and Midorikawa died. Furthermore, Ruriko Midorikawa who came to see her father misunderstood that Hongo had killed Dr. Midorikawa. Despite his sadness and loneliness, he was determined to be the only one who could fight the "Shocker".
* Quoted from Ishimori Pro official website, highlights created by author
I can hardly imagine from the Heisei&Reiwa rider who continues today, but the Kamen Rider is a remodeled human that to conquer the world. In other words, it was originally supposed to be evil, but with the help of his teacher, Dr. Midorikawa, he succeeded in escaping the definitive brain remodeling and escaping the shocker's hideout. Despite his sadness and loneliness that I am no longer human, he decides to fight for the people and peace.
This story is a tragedy. A tragedy that a man who lives normally was suddenly abducted and remodeled, by a secret society, and fight for evil. No matter what people were grateful for his action for peace, there is a sorrow that I cannot return to the original person. There is a tragedy at the origin of Kamen Rider.
Next, let's take a "One Piece" as an example. "One Piece" became popular as a new generation of manga, but at the beginning of the adventure, there was an incident that could be called a tragedy.
The tragedy drawn at the beginning is a scene where Shanks, who had longed for, loses one arm because of himself. It was an incident that led to Luffy become tou aspireing a pirate in childhood.
The story progresses further, and a major tragedy happens to Luffy in an episode of "Marin Ford". The death of his brother Ace. The loss of one arm of Shanks was a great tragedy, but it was drawn with a shock that was incomparable, and reborn Luffy would grow up strongly. And the other death happens at the same time. The death of the Whitebeard Pirates' Whitebeard (Edward Newgate) was a tremendous psychological shock to readers.
The tragedy is an essential element in the birth or growth of a hero.
Companions
When we talking about "One Piece", the most important context spoken in the story may be "importance of friends." It is very impressive for us to see the parting scene with Bibi in the 23rd volume, "Alabasta".
For Kamen Rider, there is also Kamen Rider No. 2 (Hayato Ichijo), Toubei Tachibana and "Shonen Kamen Rider Corps". However, as mentioned earlier, Kamen Rider is "a person who holds sorrow and loneliness and fights alone." Therefore, it can be said that even if there are friends, there is loneliness at the root of him.
In "One Piece", each character has a background and story, which is told in detail. Although Luffy takes the form of a hero as a work, depending on the reader, Zoro, Sanji, Nami, chopper and other characters are drawn so densely that each of them can be a hero. And each one has a tragic story, and in terms of growing beyond that, it can be said that "One Piece" is a group drama with every characters are a hero.
Just as the "Sekai ni Hitotsudake no Hana" was a popular song in the Heisei era, it seems that a world that respects the individuality of each individual can be seen through.
Anger emotion
A feeling of anger grows hero. Many heroes wake up and gain amazing power when his(or hers)lives or the lives of their precious companions are at risk.
Kamen Rider BLACK RX has transformed into Bio rider because of emotions of sadness, in addition to, has transformed into Robo rider because of anger emotion, so intense emotions that shake their hearts are indispensable for the growth of heroes.
Enemy / nemesis existence
In addition, Hero needs an "enemy" that is necessary to become a hero.
Speaking of Kamen Rider, it's a "shocker". Later in the Heisei Rider series, the story unfolded in a way that did not depict clear justice (especially "Ryuki"). Justice in not only one thing.
However, at the time of the "first series of Kamen Rider", justice is only one, justice and evil were cleary separated. In other words, Kamen Rider is justice, Shocker is evil. The existence of a masked rider requires the evil( a shocker). Otherwise, "Takeshi Hongo(Kamen Rider)" who has been remodeled will be a monster to human beings, and will have to be destroyed by Hero(himself). It is Self-contradiction of existence.
It can be said that there is no enemy in "One Piece".
"Crocodile", "Enel", and "Gekko Moria" are portrayed as enemies, but if they are not in "One Piece world", Luffy would not threaten his existence by them. Because, they are Luffy's just obstacles in the process of becoming a "pirate king". Luffy has beaten them but it is not that Luffy is justice and they were evil. In the end, Luffy brought peace in Alabasta and Jaya, but that is not the goal for him. It's like "Mito Komon". A presence that solves problems everywhere you go.
What is the enemy and evil of "One Piece"?
Luffy is a pirate in the first place. And there is a navy in "one piece". We think, "pirate = outlaw group = evil", "navy = government agency = justice".
Here too, we can speak multifaceted justice.
If Luffy has justice, then the Navy has justice. The Navy admirals wearing a coat "justice on their backs" seem to be justice, but they are depicted as enemies who shatter Luffy's dream.
"The Blackbeard Pirates", which are specifically depicted as absolute evil, can be enemies for Luffy, but if they have the righteousness of villains, do we need to understand them? In "One Piece", the hero and the enemy cannot be described in a way that is easy to understand, just like talking about a Kamen Rider. "Friends" and "enemy" are quite fluid and cannot be solid.
So far, I've listed the three elements needed for a hero based on two works, "Kamen Rider" and "One Piece". It is also followed by "Kimetsu no Yaiba", which I want to talk about finally.
Next time, I will write about how heroes are drawn in Japan and the United States.